2020/6/1

 


 

「ありがとうございます。でも大丈夫、それは受けとれませんからどうかしまっといてください」
 こんなときでも見栄を張りたい欲求に負けてしまい、結局はそう口走っていた。言ったそばから後悔が顔に出ていたらしく、それを見おとさなかったハナコ《﹅﹅﹅》は茶封筒をひっこめずこちらの胸もとへ押しつけてくる。その眼光は例によって断固たる意志をおびている。
 これはたがいに折りあえる折衷案でも口にしないと決着がつきそうにない。横口健二はそう思い、「じゃあこうしましょう、おれの財布がからっぽになったときに必要な分だけわけてください」と告げてみる。だがそれでも、腑に落ちないといった面持ちのハナコ《﹅﹅﹅》はゆっくりと首を横に振っている。やせ我慢すんなとでも言いたそうだ。
 外出するのにあとは靴を履くのみだというのに、ダイニングキッチンでの押し問答が堂々めぐりに陥りその先へ進めない。そんななか、だしぬけに玄関ドアががたがたっとゆれたせいでふたりともぴたっと口をつぐむ。強風でも吹いたのかと思いきや、音の響きがやがてこんこんに変わったのでノックが鳴っているのだとわかる。
 うちにくる人間など大家夫婦か沢田龍介のどちらかしかいない。大家だとしたら面倒だなと感じつつ、あがりかまちに立ってドアへと手を伸ばした横口健二は、ノブを握る寸前ではたととどまる。新潟の三次団体会長ならこんこんなんて真似はせず、いきなりドアを開けて入ってこようとすると思いあたったからだ。それにこの来訪者は単にノックするだけだから、毎度しつこく「横口さん横口さん」と呼びかけてくる大家でもない。
 いったいだれだろうか。せめて顔をたしかめたいが、結構な築年数の安普請ゆえ白馬荘の玄関ドアにはドアスコープもチェーンロックもそなえつけられていない。したがって、こういう場合は風呂場の窓でもそっと開け、隙間から外をのぞいてみるほかないが、距離が近すぎるので相手に悟られてしまうリスクがかなり高い。

 どうするべきか悩ましい。
 さすがに死体写真も送っていない段階でこちらの計略が北朝鮮のお偉いさんにばれるとは考えがたい。だからまさか、ハナコ《﹅﹅﹅》の処分をボスよりじかに命じられた殺し屋だとかが急遽やってきたわけではないだろう。
 とはいえ、危険はないと決めてかかって予想がはずれでもしたら最悪だ。彼女の生死を左右する一大事でもあるからには、まんがいちを考慮して慎重に対処しなければならない。
 ここでの最適解は居留守で回避にちがいないとは思う。
 しかし相手が根まけして帰ったとしても、そこできれいに終了となるだろうか。なんらかのたくらみを抱いている者なら、そのままどこかの物陰にでもひそみ、この部屋の玄関を見はりつづけるということもありそうだ。そういう可能性だって皆無とは言えない以上、わが家を訪れたのがなにものなのかを知らずにハナコ《﹅﹅﹅》をつれて出かけるのは無謀かもしれない。
 かような思案のすえ、浴室からチェックするしかないと結論し、玄関に背を向ける。ところがその次に、横口健二は一歩も動かぬうちに振りかえることになる。「横口ちょっと顔みせろや」などとドア越しに大声で話しかけられたためだ。おまけにこれは、わが職場たるブライダル映像制作会社でしょっちゅう自分を罵倒している声だと彼は気づき、にわかに新たな緊張感につつまれてしまう。
 派遣先の社長が来訪者だと判明したものの、厄介事がひとつ増えたにすぎない。思えば一週間ほど前、こちらがではなく向こうがかけてきた電話で数日間の休暇を願いでたきり、なんの連絡もせず今日まで無断欠勤をかさねていたのだから、会社経営者をキレさせるにはじゅうぶんな理由がある。それはまったく申しひらきようがない。
 前回の電話の時点でさえ彼は絶え間なく怒鳴りちらしていたくらいなのだから、今回のこれは怒り心頭に発したがゆえのアポなし訪問にちがいない。直接の雇用関係にあるわけでもない派遣社員なんかの自宅を社長みずから訪ねてくるということは、頭に血がのぼりすぎてわれを忘れてしまっている状態ですらあるかもしれない。
 いずれにせよ、ここで大騒ぎされてしまったら大家夫婦も駆けつけかねないしたいへんによろしくない。


 こうなったら、仕方がないのでハナコ《﹅﹅﹅》には念のため靴と一緒に風呂場にでも隠れてもらい、社長を部屋に招きいれて機嫌をとらざるをえまい。とにかく土下座でもなんでもしまくって、早々にお帰りになってもらうほかないだろう。
 かくしてふたたび玄関ドアへと手を伸ばす。つづいてがちゃりと開けるや、相手に物言う隙をあたえず挨拶と謝罪をたたみかけ、平身低頭の印象を植えつけてゆく。
 そのうえで、ちらかっていますがよろしければどうぞと誘い、長髪髭面にカジュアルなよそおいの小林社長を六畳間へ通そうとするも、早くも問題発生となる。部屋の奥にそびえ立っているピンク地マイメロディ柄のきらきらしたキャリーバッグが目にとまり、横口健二は愕然となってしまう。
 即刻その隠蔽をはからねばなるまいが、とりうる策はきわめてかぎられており、決断にかけられる時間は一秒もない。小林社長がまだダイニングキッチンにいるうちにと、横口健二が瞬時に講じたのはキャリーバッグを横に倒し、万年床のなかへおさめてしまうという方策だ。しかしバッグを布団で覆いかくしたはいいが、そこでだれか寝てるんじゃないかと思わせる不審なほどのふくらみができあがってしまう。
 横口健二はやむなくそのふくらみに腰かける。それ以外にどうしようもないからだ。
 いっぽう、小林社長は敷居をまたいで立ちどまり、眉間にしわを寄せて横口健二を見つめている。二秒前まで平身低頭だった連続無断欠勤中の男が今は奇態な自家製ソファーに座り、こたつへ入るよう勧めているのをいぶかしんでいる様子だ。
 この状況はじつにまずい。それは横口健二にもよくわかっている。社長もいちおうはこたつに入って腰をおろしはしたものの、五つくらい年下の派遣社員のほうが上座にいるのみならず、文字どおり頭が高い《﹅﹅﹅﹅》位置関係にある。これではこちらがどんなに詫びを述べようとなんの説得力も生じないだろう。表情を見るに、客人もえらく居心地が悪そうだ。
「おれがなんできたのかはわかるよな?」
「ええ、それはもちろん」
「無断欠勤つづけてるやつが顔を出すのを黙って待ってやる余裕なんてうちにはないし、正社員でもないのにそういう人間を何日も会社に置いとけないよ、常識的にそうだろ?」
「はい」 

 

「こうなったらふつうはな、派遣会社の担当者に人員交代要請の連絡いれて、そこでおしまいなわけ。だから別に、こんなふうに家に押しかけるつもりなんてさらさらなかったんだけどな、でもなあってふと思ってさ、おまえの人生について考えちゃったんだよおれ――横口、聞いてる?」
 むろん聞いているので横口健二は無言で即うなずく。真摯に耳を傾けているふうに見せたいあまりまばたきもせずにじっとして、真剣そのものといったまなざしを社長に向けている彼の表情は、平身低頭どころか今度はすごみを利かせているかのようでさえある。
「おまえもほら、いっぺんやらかしちゃってる口だしさ、今までいろいろあったわけじゃない。いろいろあったすえにうちにきたわけでさ、それってつまりどういうことかっていうと縁なんだよ。そう縁、縁なんだよ縁、わかるだろ?」
 そんな実感はみじんもないが、勢いに負けて横口健二はここでもうなずいてしまう。
「うちはそういう意味じゃ、ひとの縁むすびでなりたってる商売なわけじゃん。だから正社員じゃないっつってもおまえとの縁をないがしろにはできないんだよ。だってこれは、なんつうか、派遣と雇い主の関係なんてそっけないもんじゃなくて、おれとおまえっつう人間どうしの縁の話なんだから。それにその、おれとおまえの縁はさ、もう絆に変わっちゃってるんだよね。日に日に結びつきが強まって、ふとい絆ができあがってんだよ、おれはそんなふうに考えたわけ」
 反応にこまり、横口健二はうつむきたくなってしまう。小林社長がいったん言葉を切り、いいこと言ってるだろおれ、などと訴えかけるみたいにまっすぐ目をあわせてきているからだ。沈黙のほかに応じ方が見つからない。
「正直な話、おまえずっとおれのこと、駄目だしばっかりしやがってこんにゃろうって思ってたろ? それはいいの。実際そうだし、こっちもおまえが成長すんのねらって鍛えてやってるわけだから。要するにまあ、おまえのこと目えかけてるからあたりもちときつくなるってやつでさ――」
「社長」
「ん、なに?」
「お気持ちはとてもありがたいんですけど」
「うん」 

「そのお話を全部うかがう前に、こちらからお伝えしといたほうがいいかなと思うことがありまして――」
 途端に小林社長の顔つきが強ばり、さっきよりも深々と眉間にしわが寄っている。せっかくいい気分でしゃべっていたのに、水をさすような話がはじまりそうだと察してむっとしているのかもしれない。しかしこちらもいつまでもハナコ《﹅﹅﹅》を風呂場に押しこめておくわけにもゆかないと思い、横口健二はかまわずこうつづける。
「じつはおれ、この先もとうぶん出勤できそうにないんです。いつになったら会社へ行けるのかもわからない状態なんで、ご期待に添うのは無理だと思います。そのこと、すぐに連絡しておけばわざわざご足労いただかなくて済んだのに、申し訳ありません」
 小林社長は顔つきを強ばらせたまま、ますます眉間にしわを寄せている。彼が次に口を開いたのは、数秒ほどしてからだ。
「――ああ、うん。そりゃおれもさ、明日からおまえがぱっと会社に出てくるなんて思ってはいないよ。さすがにそんなことはないから、おまえもそう早まるなよ」
「でも社長、あとふつかみっかやすめばOKってわけでもないんですが」
「あ、そうなの、ふーん。んじゃ二週間くらいとか、そんな感じ?」
「いやほんとに、そんな簡単に期限きれるような話じゃないんですよ。一カ月あってもたりないかもしれないくらいなんで」
「え、マジ?」
「マジです」
「なんでなの?」
「言えません」
「は?」
「言えません」
「言えないってなんでだよ」
「あ、ええとその、ちょっと言いにくい種類の話っていうか――」
 ついうっかり、言えませんなどとバカ正直に答えてしまったために横口健二はとりつくろう必要にせまられる。あわてて思案をめぐらせかけると、また数秒ほど押し黙ってから小林社長が話しかけてきた。
「横口」
「はい」
「おまえなんか、ふざけてない?」 

「ふざけてなんかいませんよぜんぜん、そう見えます?」
「なんとなくな」
 はりつめた空気のみが漂うなか、数秒どころか数分ほどが経過していった。その間、横口健二はいつわりの欠勤理由を懸命に脳裏で組みたてていた。なにかもっともらしい言いわけを述べ、社長の誤解をすみやかに解かなければならないとあせっていたからだ。
 しかしそれはかなわなかった。会話を再開させることなく、小林社長はまず溜息をつき、こたつを出ておもむろに立ちあがった。そして感情を押しころしたようなしわしわの形相で派遣社員を見おろすと、ただ「帰るわ」と告げただけだった。
 そのひとことには、今度ばかりはおまえを見かぎったという意思がこめられていそうな気がしたが、だからといっていつか挽回のチャンスをくださいなどと言える状況ではない。ここで出まかせをかさねたり変に同情を誘うような真似をするのはもってのほかだと思い、余計なことを口走らぬようにと玄関口で見おくる際も黙りこむしかなかった。白馬荘の鉄骨階段を駆けおりてゆくうしろ姿にも声をかけず、路駐したアウディ・TTに小林社長が乗りこむのを見とどけた横口健二は、当のドイツ車が発進したところで二〇三号室のドアを閉ざした。

 

 

 その日、二度目のノックが鳴ったのは夕食後のひとときだ。こんこんと響いて横口健二とハナコ《﹅﹅﹅》はとっさに口をつぐむ。時刻はもうじき午後九時半をまわる頃だから、公共機関職員の訪問ではなさそうだ。うるさくしていたわけでもないのでおそらく隣室からの苦情でもない。
 衣類の洗濯乾燥と食料品の買いだしは夕方のうちに終えていた。その途中に寄ってみた近所のヤクルト販売センターで買った麺許皆伝ヤクルトラーメンしお味を今夜のメニューに選んだ。インスタントラーメンを食べおわったあとは死体写真の研究にもどった。どういう手段をもちいればリアルな死に様の画像ができあがり、死んだふりだと見ぬかれずに済むのか、横口健二とハナコ《﹅﹅﹅》は食事前からふたりであれこれ話しあっていたのだ。
 最初の議題となったのは、くまモンよりの贈り物たるシャネルのコフレを偽装工作に活用すべきか否かだった。


 メイクアップでこしらえた死に顔をクローズアップで撮るというのはどうか。この方法なら、部屋から出ずに安全に撮影できて低コストで仕あげられそうだ。
 横口健二がそう持ちかけてみても、ハナコ《﹅﹅﹅》は首を縦には振らなかった。ふつうの化粧道具だけではむつかしそうだしそんなメイクをほどこす自信もない、というのがその理由だった。
 ならばネットで死体メイクのノウハウを調べてみればいいとなり、ためしにスマホで検索してみる。が、表示されるのは現実味にとぼしいゾンビフェイスやゴスメイクばかりでまるで参考にできない。
 死に顔メイクのクローズアップにこだわるのはやめて、山のなかに掘った土穴に横たわる姿でも撮ってみるというのはどうだろう。背景もふくめた構図のほうがほんものの死に様らしく映るのではないか。
 これはハナコ《﹅﹅﹅》の提案だ。なるほどそれもそうかもしれないと感じ、はじめは同意してみたが、横口健二は即座にその意見をひるがえすことになる。
 裏社会の慣例にとどまらず、山中にうがった土穴への埋葬は死体遺棄犯罪の典型と思われるし、それをおさめた写真はたしかに一定のリアリティーがありそうだ。しかしだからこそ、遺棄現場を見なれたプロの目をごまかすのは容易ではないかもしれない。素人が見すごしがちの重大な欠落でも見とがめられ、違和感を持たれてしまえばあっさり噓だと見やぶられかねない気がする。そんな懸念が浮かび、良案とは思えなくなってしまったのだ。
 ならばどうするべきなのか。拙速を避けるのが望ましいのは承知している。だが死体写真を送るのが遅れれば遅れるほど、死の偽装を勘づかれる確率はあがりそうだから、時間をかければいいというものでもない。
 かくして、麺許皆伝ヤクルトラーメンしお味を食べおわったあとにふたりは第三の選択の検討にとりかかる。そこへいきなりノックの音が響いたものだから、二〇三号室にたちまち緊張が走って横口健二とハナコ《﹅﹅﹅》はぴたっと口をつぐんだのだ。
 果たしてだれなのだろうか。今回も「横口さん横口さん」と呼びかけてはこないから大家夫婦ではない。沢田龍介でもなかろうし、小林社長がふたたびあらわれたというのも考えがたい。

 


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