2020/8/1

 

 


 iPhone SEがアラーム音を鳴らし、午後三時半をまわったことを知らせた。探索作業を打ちきらねばならぬタイムリミットがついにきてしまったわけだが、「アルフレッド・ヒッチコック試論」の発見は結局かなっていない。すなわち完全に手づまりであり、暗澹たる感慨が一気に押しよせてくる。

 念のため、論文は手に入らなかったがどうするかとハナコ《﹅﹅﹅》に訊ねてみる。新潟へ向かい、沢田龍介が用意してくれた方法で国へ帰る意向に変更はないというのが彼女の答えだ。訊くまでもない返答であり、それに対してこちらもうなずく以外に応対しようがないが、つくり笑いを浮かべることもできず横口健二はおのずと表情をひきつらせてしまう。

 帰国後にハナコ《﹅﹅﹅》がどんな目に遭わされるだろうかと否応なしに想像させられ、心ぐるしいどころではない痛みをおぼえる。死地へとおもむくにひとしい彼女にかけるべき言葉をひとことも持っていないみずからにもあきれるほかない。こんなとき、ただひたすらなさけないと自分自身をなじるくらいしかできることがないというのもじつにみじめだ。

 だが今は、そんなおのれの不甲斐なさにいじけて時間を浪費している場合でもない。さしあたっては熊倉リサに事情を伝え、すみやかに東京駅へと直行しなければならない。いまだ地下室ははんぶん程度の蔵書が未整理の状態だが、これについてはハナコ《﹅﹅﹅》の出国を見とどけて新潟からもどったところでつづきをやらせてほしいと頼んでみることにする。

 かように考えながらハナコ《﹅﹅﹅》とともにエレベーターで一階にあがり、足早に帳場へと向かう。するとダニー・デヴィートのようでも北極熊の子どものようでもある店番の矢吹翔がなにごとかという面持ちでにらんでくる――もっとも、こちらがふたりして熊倉書店のご厄介になっているいきさつは彼も部分的に承知してくれてはいるので、そこに悪感情などは見られない。熊倉リサの居場所はどこかと問いかけてみると、三階売り場や五階の居住フロアにはいないという。

 

 

「一時間くらい前に出かけたきりですよ」

「どちらへですか?」

「なんも聞いてないんですよお、いつもふらっと出てっちゃうんでねえ」

 言づてのメモも残していないようだから仕方がない。ここはひとまず熊倉書店を出て東京駅へ急ごう。そうしてなにごともなく上越新幹線に乗りこめたら、車内から熊倉リサに電話をかけ、詳細を彼女に報告するという手順をとるしかない。

「なら矢吹さんすみません、熊倉さんにあとでかならず電話しますと伝えといてもらえますか」

 そう言いおくや否や、返事も待たずに横口健二はハナコ《﹅﹅﹅》とともにまた足早になって出入口のほうへ歩きだした。近所へ買い物にでも出かけるのだろうと早合点したのか、矢吹翔は「はいはあい、いってらっしゃあい」などとのんびり間のびした声で送りだしてくれたが、電話の件を熊倉リサにちゃんと知らせてくれるかいささか心配になる。

 店の外へ出たはいいが、東京駅への行き方を決めていなかったと思いあたってあわててiPhone SEをとりだす。神田すずらん通り商店街のどまんなかに立ちどまり、いちばんてっとりばやいルートはどれかと音声アシスタントSiriに訊ねてみる。その回答が画面に表示された矢先、不意に名前を呼ばれてしまったので横口健二は顔をあげざるをえなくなる。

「あ、熊倉さん」

「論文、見つかりましたか?」

「いえ、そうじゃないんです――」

 用事を済ませて帰ってきたらしい熊倉リサとこんなシチュエーションで鉢あわせとはタイミングがいいのか悪いのかわからない――ふだんどおりのイーディス・ヘッド・ミーツ・ゴスパンクのよそおいでニットのトートバッグを肩にかけている彼女は、散歩がてらお茶でも飲んできたところといったような雰囲気だ。

 ぐずぐずできない場面だが、それなりに筋のとおった説明を聞かなければ熊倉リサはこのとうとつな外出を納得しちゃくれないだろう。だとすれば、沢田龍介とのやりとりをありのまま明かしてしまったほうが話が早そうだ。

 瞬時にそう判じ、横口健二は訊かれる前に打ちあけてしまおうとするが、相手に先まわりされ意外な言葉に行く手をはばまれる。

 

 

「横口さんわかってます、おふたりですぐに新潟へ出発しなければならなくなったんですね?」

 なぜそれを、という顔つきになってかたまってしまう。おそるべき洞察力だと震撼しかけるが、にしてもいったいどういうからくりなのかと素朴に問うてみずにはいられない。

「失礼ながら、たまたま耳に入った会話がなにやら切迫したご様子だったので、最後まで盗み聞きしてしまったんです」

 そういうことかと理解はできた。

 しかし当然、ならば彼女はどこでどのように盗み聞きしていたのかという問題は残る。ビルぜんたいが糸電話になってるわけじゃあるまいし、地下室のおしゃべりが一階やさらに上階へ筒ぬけになるとは考えがたい。エレベーターのケージ内にひとがひそんでいた気配もなかったから、可能性としては通信傍受とか盗聴器の利用といったきなくさい疑惑が浮上してしまう――が、いずれにしても今はなにが飛びだすかさだかでないこの蓋を開けないほうが全員にとって望ましい気がする。とにかく時間がないのだ。

「そしたら熊倉さん、そういう事情なんでくわしい話はおれがこっちにもどったらってことで――」

「ちょっと待ってください横口さん」

 呼びとめられて「はい?」と言いつつ振りかえると、熊倉リサがトートバッグからまっくろなクリアファイルをとりだして「これをどうぞ」とハナコ《﹅﹅﹅》にさしだした。横口健二は反射的に「それは?」と問いかけてしまう。

「『アルフレッド・ヒッチコック試論』の全文コピーです」

「え」

 すかさずたしかめると、そのクリアファイルには評論文が印刷されたコピー用紙が何枚もはさみこまれている。欠けているページはないと保証しつつ、「さしあげますので持っていってください」と言いそえた熊倉リサをハナコ《﹅﹅﹅》はとっさに抱きよせ、厚い謝意を伝えている。するとニットのトートバッグのなかに、外づけハードディスクドライブが一台つっこんであるのを目にした横口健二は、一刻も早く発たねばならぬ状況ながらも走りだすより先にこの質問を投げかける。

「まさか二〇〇万円はらったんですか?」

「いいえ、値ぎりましたので」

 

 

 ディスカウントOKだったのかよと喉から出かかるがこらえる。いくらまでさげられたのか、知りたくてそわそわしてしまうが、さすがにもう時間ぎれだからとそれも封じこむ。

 Siriの提示した最適ルートにならい、手はじめに神保町駅へと向かうべく熊倉リサにわかれを告げようとすると、怪訝そうに彼女がこう訊ねてきた。

「荷物は? キャリーバッグを忘れてませんか?」

 横口健二は自身のクーリエバッグをさげているが、スマートフォンや変装品いがいにハナコ《﹅﹅﹅》がたずさえているのはふたつのクリアファイルのみだ――今しがたプレゼントされたまっくろいほうに加え、「試論」の雑誌記事コピー一五枚をはさんだ無色のファイルを彼女は小脇にかかえている。ピンク地マイメロディ柄のきらきらしたキャリーバッグは、熊倉ビルの五階に置いて出なければならなかったのだ。

「いやそれが、あれは持ってくなって沢田さんに言われちゃったんです」

「なぜ?」

「要するにまあ、ふつうの渡航手段じゃないというか、おそらく船だと思うんですが、重量オーバーになっちゃうかもしれないからでかい荷物は駄目だと」

「なるほど」

 横口健二は「では」と言いのこして今度こそその場を立ちさったが、彼につづく前にハナコ《﹅﹅﹅》は熊倉リサの手をとり、「ほんとうにありがとうございます。このご恩をわたしは決して忘れません」とあらためて感謝を述べていた。

 

 

 東京駅の二〇番線ホームから上越新幹線とき331号新潟行きに乗車したのは午後四時一五分をまわりかけたときだ。同便の発車時刻はその一分後だからあやうく乗りそこなう寸前で横口健二とハナコ《﹅﹅﹅》は車内へ飛びこむ羽目となった。

 借金だらけの身のうえゆえ、出費は少なく抑えたいのが本心ではあるものの、あえて座席指定券を購入し、八号車のならびの席を確保した。

 この時期や時間帯の自由席の混雑具合がつかめず、もしも空席がひとつもなかった場合、ハナコ《﹅﹅﹅》を通路やデッキで立ちっぱなしにさせるわけにはゆかないと考えたからだ。

 沢田龍介よりの給付金は一〇〇〇〇円ちょいに減ってしまったが、ブライダル映像制作会社より振りこまれた最後の給料をATMで財布に補充しておいたので支はらいはなんとかなった。

 どんな帰国方法を用意してくれているのかは不明ながら、急に決まった違法な手口であるからには、それが快適な旅を約束するようなものでないことだけはまちがいない。

 だからせめて、新潟駅までの二時間ずっと座ってすごせるくらいの乗り心地は任務のパートナーたるこちらが提供してやらなければなるまい――そんな横口健二なりの配慮もあった。

 一刻のゆとりもないなかでの移動だったから、新幹線の座席についたときにはあまりに息がはずんでしまって体をシートにあずけた気がしなかった。しばらく会話すらままならなかったが、とにもかくにも間にあってよかったとふたりで微笑みあうことはできた。

 熊倉リサとわかれ、神保町駅から一五時五六分発の都営三田線に乗って大手町駅で降りるまでは快調だった。にわかに疲れが出てきたのは、大手町駅から東京駅のあいだの三〇〇メートルほどの距離を小股で走りきってしまったせいだ。

 東京駅にたどり着き、みどりの窓口でふたり分の乗車券と指定券を買いもとめた頃にはふらふらになるも、改札口の手前でふと時計を見やるや発車時刻まであと二分もないことに気づいて大いにあせってしまう。かくしてひどくこみあう改札内のスペースをまた小走りせざるをえなくなり、二〇番線ホームへと急いだあげくの酸欠状態だった。

 幸いなことに、今のところは八号車は空席が目だっているからふたりでひそひそ話している分には神経質になる必要はなさそうだ。

 仮にハナコ《﹅﹅﹅》のボスがすでに工作員だか殺し屋だかを手配ずみだとしても、白馬荘を出てからまる四日も経っておらず、今回のこれは突発的に決定した出発でもあるので尾行がついている可能性も低いのではないかと横口健二は思っている。とはいえ、その油断が命とりになりかねないのも事実だろうからむろんのこと一定の警戒はおこたれない。

 乗車して二、三〇分がすぎたあたりで乗客や乗務員が通路を往来することも減り、ようやく騒がしさが薄れて心身ともにおちついてくる。

 

 

 するとハナコ《﹅﹅﹅》はそろそろ頃あいと見たらしく、熊倉リサよりの贈り物のチェックにとりかかった。まっくろいクリアファイルにはさみこまれた「アルフレッド・ヒッチコック試論」の全文コピーをとりだし、そのいちまいいちまいに彼女は目を通してゆく。

「欠けてるページとかはなさそうですか? 熊倉さんのお墨つきだからまあ大丈夫でしょうけど――」

「おいそがしいはずなのに、これを彼女はひととおり読んで、抜けている部分がないか調べてからお渡しくださったのですね。わたしはまだざっと見てみただけですが、問題はないように思えます。すべてそろっているようですし、内容にもちがいはなさそうです」

 ハナコ《﹅﹅﹅》にそう言われてみて、熊倉リサより供与されたコピーの原本は雑誌記事ではなくEメールで送られてきたテキストデータだったことを思いだす。隣からのぞきこんでみると両者の相違は一目瞭然だ。

 雑誌記事が縦書き二段組であるのに対し、テキストデータは横書き一段組のレイアウトで印刷されている。したがって、ページごとの文字数がまるで異なる双方を照合するのにノンブルはあてにならず、テキストデータにおける欠落の有無は最初から最後まで読みとおすことでしか確認はできない。値びきを業者にのませたとはいえ、データ復旧のために高額を支はらい、そればかりか時間がないなか一読し、検品も済ませてくれた熊倉リサにはこちらからも謝意を伝えておかなければと横口健二は思う。

「どうしました? なんかおかしなところでもありますか?」

 いちまいずつめくるのをやめたハナコ《﹅﹅﹅》が一ページ目を見つめたまま思案顔になっている。横口健二に問いかけられ、表情を変えずに真横を向いた彼女は、小首をかしげてみせてつぶやき声でこういぶかしんだ。

「書かれた方のお名前がどこにもないようなので――」

 たしかに彼女の言うとおり、「アルフレッド・ヒッチコック試論」とタイトルのふされたページには筆者名と翻訳者名のいずれも記されてはいない。最終ページにもそれらは見あたらぬが、熊倉リサによればもともと当のテキストデータはフリーメールのハンドルネーム使いという匿名的な人物が送りつけてきた代物ゆえ、署名がないのは当然と判断できなくもない。

 

 

 そういうわけで、Eメールの送信者が意図的に名前を消したのではないかと横口健二が推測を述べると、ハナコ《﹅﹅﹅》はこんな疑問を呈した。

「そのメールを熊倉さんに送った方が、この論文を翻訳なさった今間真志というひとなのでしょうか」

 そう理解するのが最も理にかなっているように思える。というのも、元原稿を所持する当事者いがいの人間が情報提供をおこなうとしたら、テキストデータ化の作業は端的に余計な手間でしかないからだ。

 筆者でも翻訳者でもない無関係ななにものかがわざわざ雑誌記事を書きうつし、そのデータをEメールに添付してさらなる第三者へ送るくらいなら、もっとシンプルに写メでも撮って相手に送信すれば済む話ではある。ゆえに熊倉リサへ「試論」データを送りつけたのは今間真志と考えるのが自然であり妥当ということになる。

「もちろん、記事をスマホで撮ってそれをそのまま送ればいいんだって思いつかないひとも少なからずいるでしょうから、一〇〇パーセントそうだと断言はできませんけどね。でも、今間真志なら自分の手もとにある訳文のデータを署名なしで送信しちゃうだけのことだし、なんとなく動機も想像できるから違和感もないし、やっぱりこのひとが最有力候補と見てまちがいないんじゃないかな」

「訳文に署名を入れず、メールを匿名でお送りになったのは、ヒッチコック映画に精通されている熊倉さんに予断なく評論を読んでいただき、公正な評価を受けたいと望んでおられたからでしょうか」

「きっとそれが動機なんでしょう。もしも筆者の金有羅さんが、つまりその、あなたの国の――」

「ほんとうに将軍様だとしたら?」

「そうつまり、ほんとうに将軍様だとして、そのことがわかるようなかたちで論文が送られていたとしたら、受けとったほうもフェアに読むのはなかなかむつかしいかもしれない。だから書き手の情報をあらかじめ消しておく必要があったのかなと」

 不意になにやら思いたったかのごとく、ハナコ《﹅﹅﹅》はコートのポケットからスマートフォンをとりだした。次にカメラを起動させ、「アルフレッド・ヒッチコック試論」の一ページぜんたいをフレームにおさめようとしている。

 


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