2014/11/7

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一九七八年、アメリカ映画は双子のごとくよく似た二つの重要作を産み落とした。ジョージ・A・ロメロ監督作『ゾンビ』とテレンス・マリック監督作『天国の日々』は、それぞれ別ジャンルに属した映画(前者は近未来SFホラー、後者は一九一〇年代を舞台とした犯罪メロドラマ)でありながら、見比べてみると意外なほど多くの共通点を持つことが判る。

 まず、二篇は終末論的世界と失楽園を描いたドラマとして構成されており、物語は明らかに聖書に基づいている。

 両映画ともに主要な登場人物が四名いて、彼らの楽園生活の描写が作品の中盤を形成している。楽園生活は、四人の無為な暮らしの様子を捉えた断片的ショットを記録映画風に羅列してゆくことにより描き出されており、台詞は極端に切り詰められている。

 物語は、逃避行の末に楽園に辿り着き、長閑な楽園生活を過ごすうちに破綻が訪れて失楽園に到る、というふうに進展する。

 失楽園は、どちらの作品においても「略奪者」の襲来が契機となっている。『ゾンビ』では暴走集団ヘルス・エンジェルス(天使の騎兵隊)、『天国の日々』ではイナゴの大群(サソリの力を備えたイナゴ)が「略奪者」の役目を負っている—-いずれも「ヨハネ黙示録」において人類に災厄を齎す象徴的存在というわけだ。失楽園に及ぶまでの過程で二名が命を失い、生き残った二人が旅立つところで作品は終幕を迎える。以上が主な共通点だ。
 
 たまたま同年に製作された(別ジャンルの)映画同士に認められるこの類似性はなかなか興味深い。ロメロとマリックの別作品は特に似通った印象がないだけに、こうした偶然の一致は同時代性の反映と見るべきなのだろうか。

 ともあれ、次に両作の相違点を比較してみよう。物語上の時代背景や世界状況の設定以外の面では、二つの違いはまず、楽園生活の場に見出せる。
 『ゾンビ』のドラマの大部分が屋内で展開するのに対して、『天国の日々』は屋外場面を主としている。前者は、謎の原因により甦った死者の群衆が人肉を求めて徘徊する最中、主人公たち(テレビ局員二名とSWAT隊員二名)が大型ショッピング・センターを隠れ家として利用し、立て籠り続ける様を追った作品だ。他方、広大な麦畑に囲まれた大農場に暮らす人々(農場主と季節労働者たち)を野生の動植物とほとんど同列に扱いながら自然風景主体の画面構成を試みた映画が後者だと言える。
 しかしこのロケーション上の違いは、両作を決定的に分かつ根拠とは見做し難い。なぜなら、屋内にいようが屋外にいようが、どちらの登場人物も社会から隔絶された施設や土地に置かれているという意味では同じことでしかないからだ。

 『天国の日々』の大農場や美しい自然風景は、『ゾンビ』における大型ショッピング・センターのような閉鎖的環境として提示されている。だからこそそこは楽園になり得るのであり、喪失感が大きいのだ。
 
 ここで注目すべき大きな差異は、二篇において描かれる生命の有り様である。

 作中、楽園生活を送る主人公らを常に取り巻いているものはそれぞれ何か。ゾンビ(生ける屍)と麦にほかならない。つまり反自然的存在と自然生命とに分かれるわけだが、このことが両作の決定的な対立点となる。

 『天国の日々』には、麦の芽が地中から萌え出る様を超低速度撮影により捉えた、科学映画的な(とはいえ充分に審美的でもある)ショットが組み入れられている。発芽という命の生長を時間の経過と併せて描いた見事な細部だが、『ゾンビ』の場合、これに相当するのは(内側にあるものが外側へ出るという意味で)ゾンビの集団に襲われた者らの腹部から取り出される臓腑の映像(惨い死に様)だろう。

 麦刈りに勤しみ、収穫の時季が終わって雇農らが去った後、野原や河原で野生の動植物と戯れ、平和な日常を過ごす主人公たちの間に三角関係(肉欲と嫉妬)が芽生えてゆくことなどからも明らかな通り、『天国の日々』は、あくまでも自然の成行きに忠実であろうとする(自然光を最大限に活かしたネストール・アルメンドロスによる素晴らしい撮影は本作いちばんの美点と目されてもいる)。

 『天国の日々』に登場する人々は、表面上は理性的に振舞うなどして何とか足掻きながらも、決して自然現象(己の欲求)に逆らうことが出来ぬ存在だ。三角関係は男同士の衝突へと発展し、ついには殺人へと到ってしまうわけだが、偶発的に起きたその事態は、恰も大自然の法則が導き出した一つの結果であるかのように表現されている。秩序を乱した者は、当然のことながら処罰され、残された女たちは新たな同伴者を求めて新天地へと向かう。あるがままの生の可能性が、そこでは肯定されているのであり、自然生態系の連続性こそが、『天国の日々』の作品世界を支える最大の摂理だと言える。

 これに対して、『ゾンビ』の世界は予め「死」に覆い尽くされており、しかもその「死」の状態は極めて反自然的な様相(生ける屍が生者に襲い掛かり生肉を喰らう異常事態)を呈している。

 なるほどゾンビの行動もまた食欲という自然現象に則したものかもしれぬが、それは偽りの「欲求」でしかない。なぜならゾンビは「死者」なのだから、栄養を摂取する必要などそもそもないはずなのだ。ゾンビたちは、ただ単に食事するふりをしているにすぎない—-しかしそれはこの上なく真剣な態度でなされてはいるが。「死」(生ける屍)の他には何も産み出さぬ徹底して非生産的な行為として、『ゾンビ』のカニバリズムは描き出されている(増殖し続けるゾンビたちは、人類の生産力を限りなく零に近付けるに違いない)。

 ゾンビはいわば、生者(だった頃の自分自身)の挙動の部分的な模倣を行動原理としていると捉えるべきだ。人格を持たず、微かに残った生活習慣の記憶に従いつつ(ショッピング・センターに訪れたりするのはそのためだ)、人肉を求めてうろつき回るゾンビたちは、能力を単純化された人間の紛い物みたいな存在なのだ。

 ただしゾンビだけが紛い物(コピー)なのではない。主要登場人物の四人が立て籠もるショッピング・センター自体、様々なイミテーションで埋め尽くされた巨大な仮想現実空間のごとき場所として示されている。動物は剥製、人間はマネキン、植物は造花、カーレースや拳銃の撃ち合いはテレビ・ゲームを介して行われるといった具合だ。

 あるいはショッピング・センターで好き放題に暮らす『ゾンビ』の主人公らもまた、『天国の日々』の男女と同様、己の自然な欲望に抗いきれぬ者たちなのかもしれない。

 だが、イミテーションだらけの仮想現実空間からいつまでも脱け出せぬ彼らの間には、三角関係など生まれはしない。隠れ家に到着早々、妊娠が発覚して厄介者扱いされた女性テレビ局員は、後に相手の男から結婚を申し込まれても時期尚早だと断わってしまう。人工物に囲まれて過ごす彼らは次第に、ゾンビらと同じように「人間らしさ」を模倣するだけの存在と化してゆく。

 生者である彼らでさえ、生産力を維持することはもはや叶わない。ショッピング・センターでの毎日は、通常の家庭生活を営んでいるふりをしているだけにすぎぬのだ。食料や日用品などの必需品は、早晩底を突くだろう。楽園は期間限定の場なのだ。外へ出れば、すでに死んでいる者(ゾンビ)を殺す、という全くナンセンス(反自然)な行為に明け暮れなければならず、生き延びられる可能性はほぼ無に等しい。

 ただ一人、女性テレビ局員だけが新たな生命(生の可能性)を身に宿しているが、無事に出産できるという保証はない。『ゾンビ』の反自然的世界像は、何も産み出せず、どこへも辿り着けぬ終焉の地として組み立てられているわけだ。

 ならばなぜ、ロメロはそのような世界像を仮構せねばならなかったのか。『ゾンビ』はなぜ、仮想現実空間としての大型ショッピング・センターを必要とし、反自然的存在である「生ける屍」を登場させねばならなかったのだろうか。
 これらについて考えることが、本論の中心的課題である。とりあえずは、『ゾンビ』の映画史的意義を明らかにせねばならない。
 
 『ゾンビ』の画期性は、全面的に正当かつ共感可能な「大量殺戮」の状況を描き切ろうとした点にまず認められる。ゾンビとの殺し合いはサバイバル的必然の範囲で進められるが、映し出されるイメージは「人殺し」の光景であることに変わりはない。無闇矢鱈と繰り広げられる無情な殺戮。ゾンビどもを行動不能に陥らせるために執拗に行われる頭部破壊の銃撃や打撃の数々。そうした残忍極まりない情景を、わたしたち観客は終始安心して受け止めていられる。利己的な殺害の実行者となる登場人物らを批難する気にもならず、むしろ妥当な行為だと納得すらして見続けていられるのだ。

 テレビ局員の男女とSWAT隊員二名により構成される四人の主要登場人物たちは、正義の体現者でもなければ冷酷な悪人でもなく、その他大勢と同様にただ危険を回避しながら生き延びようとするだけの存在だ。彼らは快楽殺人者でもなければ職務上の義務として敵の殲滅を果たさねばならぬわけでもない(SWAT隊員の二名は初登場のシークエンスのみその任務に沿って行動してはいたが)。単に今そうする必要があるから(そうしないと食い殺されてしまうから)彼らは「殺す」。やり過ぎに見えぬでもない「殺人」の有り様を目にして深い爽快感を味わっても、観客は少しも罪悪感など抱きはしないだろう。なぜなら、そこで主人公らに撃ち殺されまくっているのは「死人」なのだから。

 結局のところ、大衆的ジャンル映画(またはそうでない作品の多くでさえ)が主たる描写の材料としているのは「人殺し」という事態であり、ハリウッドの物語作家たちは絶えずその(違法な)暴力行為の「正当性」を模索し続けている。メジャー大作から独立プロダクションの低予算作品に到るまで、観客の視覚的好奇心や嗜虐趣味を満たす「正しくリアルな」殺人の表現をいかにして作中に組み込むかが課題となっている。

 ポルノ、バイオレンス、ホラーという三大低予算(映像作品)ジャンルの根強い人気からも窺えるように、性愛場面と同等かそれ以上に、「人殺し」のショットはしばしば観客の多くを惹き付ける。行為の明白さが、そのショットの価値を決定づけていると見るべきかもしれない。「人殺し」とは、連続するドラマを明確に分節化する効果的アクションなのだ。

 物語の起点や終点として、「人殺し」もしくは「暴死」の場面は大いに役立つ。展開に波瀾を齎す契機にもなり、何よりも視覚的刺激剤として有効な機能を果たす。それを見守る観客全員にとってもまた実人生において無縁でない重大な危機(迫り来る死の恐怖)だからこそ、どれだけ現実離れした非日常的イメージであっても「人殺し」の場面は相応のリアリティーを感じ取らせてしまう。異形の怪物や存在感の稀薄な宇宙人らによる殺人シーンであれ、現実味をいっさい欠いた絵空事のショットには見えまい(そこでは人の死に様自体が現実との接点となっている)。殺されるのが人間というだけで、同種のシーンは多かれ少なかれ確実性を備えた恐ろしいイメージとなって観客を興奮させるだろう。

 難解な「人殺し」の場面など滅多に存在しない。たとえ人の命を奪うアクションが直接的に示されぬにしても、死体や不在の意味を捉えそこなう者はほとんどいないはずだ。
 
 いずれにせよ「物語映画」においては「人殺し」の必然性が要る。「人殺し」が起こり得るにふさわしい状況設定=「正当性」が必要とされるわけだ。

 勧善懲悪の図式が疑われず、英雄と悪漢の対決という単純明快な二項対立的ドラマで誰もが満足できる時代であれば(単純明快な二項対立の図式自体は今なお幅広く用いられてはいるものの)、「人殺し」の「正当性」は「正義」という観念のみで充分だ。そうした構造に飽きてしまったら、善と悪それぞれの代行者の地位を逆転させて「不正」を主体とした犯罪映画に仕立て上げればいい。あとは「殺し」を行う者の心理的葛藤などに焦点が当てながら動機のバリエーションを拡充してゆくだけだ。

 偶発犯を扱う物語は、事件発生に関わる外的事情の組み立てが動機説明の代わりとなるだろう。九〇年代は、『羊たちの沈黙』に代表される「快楽主導型の殺人者」が幅を利かせていた。「快楽殺人」という設定が、目的化された「殺し」の必然性を生むわけだ。道義的問題の検証を主題とすることが、理不尽な「人殺し」を描く映画の「正当化」の手続きと目される場合もある。「法の抜け穴」はいくらでも見つかるのだ。

 しかし、ドラマの展開上必然的な「人殺し」を描き得ても、作品に万人向けの共感の回路を埋め込むことは容易でない。作中の事件が「理由なき殺人」と映るものほど、観客の共感を当てには出来ない。

 社会通念との大きな乖離があるのだから、事件の経緯をより正確に伝えるべきなのだとすれば語り手(場面構成)は可能な限り明瞭な筋道を辿らねばならない。

 だが、説話上の判りやすさは必ずしも世間一般の共感には結び付かない。各観客が個別に考える「人殺し」の「正当性」は一色でないためだ。観客の側にも、立場上の許容範囲というものがある。政治的/宗教的信条、等々、諸々の経験的認識がその許容範囲を規定している。警官に息子を銃殺された過去を持つ父親は、いかに優れた映画であっても『ダーティー・ハリー』を容認し難い映画だと感ずるだろう。
 要するに、作中描写の共感可能性は最大公約数的な想定によってしか成立し得ない。緻密な論理性に導き出された「人殺し」の表現であれ、それが公然と誉め称えていいような善行とは見做しにくい無法な行為のイメージであることを知らぬ者はいない。

 人道上、殺人は出来る限り避けるべきことだと観客の大多数が理解しているはずだ。殺人の認可は、人間にとって実際的な自己否定に帰着しかねない。自殺願望を持たぬ者ならば、自分が殺されるのを拒絶するのが道理だ。観客の覗き趣味は真に迫ったリアルなイメージを求めるが、残酷無比な「人殺し」は虚構の中だけに留めておきたいと大半の者が願ってもいるだろう。徒に不安がらせるだけでは駄目なのだ。それゆえ、共感(もしくはその表裏としての反感)の回路を無視した作品は大衆的な価値を失いがちとなる。

 そうはいっても、先に挙げた理由により、どでかく儲けたい映画の製作者たちは派手な「人殺し」の場面をふんだんに盛り込みたがってもいる。そのためには、共感の回路と固く繋がる「正当性」を導入せねばならない。

 最も理想的な形は、劇中において沢山の人を殺しながらも万人の納得を得られるような作品だ。いつでも現実化しそうな不安感を呼び起こしはしても、我が身には決して降り懸からぬという楽観の余地も残す、虚実皮膜のドラマ像こそが最適というわけだ。

 いっぺんに大勢の人々が死ぬ様を描いた、映画史上最大のヒット作『タイタニック』はその好例と言えるかもしれない(現実にあった事件の映画化とはいえ、あくまでも遠い過去の出来事として展開するドラマゆえ、阿鼻叫喚の大惨事を観客は全くの他人事として見通してしまえる)。
 

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 『タイタニック』は、悲恋のメロドラマだから大入りしたのではない。大量死を描き出した作品だったからこそ記録的興行収入を達成できたのだ。しかしその大量死の描出を試みるためには、悲恋のメロドラマという共感の回路を絶対に必要とした。この連携が『タイタニック』の核をなしている。目を背けたくなるほどの衝撃を与えつつ、より多くの共感を誘いもする「殺戮」—-ハリウッドの物語作家たちは、そんなシチュエーションを産み出すために日夜知恵を絞っているわけだ。
 
 いちばん手っ取り早く「人殺し」を「正当化」できる最大公約数的な動因は、やはり「正義」に違いない。だが、独善主義に陥らぬ「正義」を見出すことは難しい。

 普遍的な「正義」の立場を顕示できぬ以上、共感の回路と繋がる「正当性」との関係は常に流動的である。単純明快な二項対立的ドラマを物語る上でも、時代の変化に応じて様々な設定の工夫が要請されており、映画製作者たちはそのことに鈍感ではいられない。
 当然のことながら、映画は同時代の政治的現実を無視できない。例えばハリウッドの場合、恐らくは「ネイティブ・アメリカン」を「悪いインディアン」(悪役)として作中に登場させるのが難しくなった頃から特に、敵対する二項(善と悪)の設定に(より広い観客層に受け入れられそうな)工夫を凝らさねばならなくなっていった。
 第二次大戦下の連合国的「正義」は、戦後の東西対立の激化によってすぐに通用しなくなる。六〇年代後半以降、カウンター・カルチャーの興隆とその市民運動への弾圧、相次ぐ政治指導者の暗殺事件、ベトナム戦争の泥沼化などによって合衆国の掲げる「正義」がかつてないほど強い批判の対象となっていったのは今更指摘するまでもないだろう。
 むろん冷戦下は米ソ二大国の緊張関係が生む水面下の直接衝突や代理戦争的事態、冷戦以後は反米テロリスト(主にイスラム原理主義過激派)との攻防戦などの状況を利用した戦争アクション、他にもFBI、CIA、NSA等の捜査/情報機関の絡む犯罪及び諜報サスペンスのドラマが次々と製作された。国内外の「民衆の敵」との闘争が、大掛かりな「人殺し」の起こる必然的状況として選ばれていったわけだ。
 

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 そうした中では、国家的な「正義」は疑惑の対象でしかなくなってゆく。『ランボー』におけるベトナム帰りの元グリーンベレー隊員ジョン・ランボーの苛立ちは、まさにその欺瞞に満ちた合衆国的「正義」に向けられたものだった。
 「正義」は時として個人を虐げる抑圧的態度となり、それに対する反逆という形で別の「正義」が辛うじて前景化されるだけだ。八〇年代以降、現実の社会状況においては「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」という反差別の「正義」が広まりはしたが、そのような良識は「人殺し」を描くための口実とはなり難い。
 「正義」は今、いったいどこにあるのか誰にも判らない—-という不安定(サスペンスフル)な状況の再認的ドラマによってしか、つまり逆説的にしか、もはや「正義」の「人殺し」は表象し得ない、とでも判断するほかないのだろうか(実際、サスペンス映画においては多くの場合、正義漢的キャラクターとして登場した者こそが最も信用の置けぬ人物である)。
 いずれにせよハリウッド映画において、「正義」のイデオロギー的意義は今や長続きせず、パロディー的表現へとすぐさま取り込まれてしまうことは確かなようだ。何しろ、現大統領自身が「9・11」への対応として映画を見倣い、自ら進んでパロディー化を受け入れているくらいなのだから。
 
 ハリウッド映画にとって、近年のホワイトハウスはほとんど戯画化の素材 でしかないのかもしれない。九〇年代以降、ハリウッドの物語作家たちは多数のアメリカ合衆国大統領を作中に登場させている。同種の企画を頻繁に持ち込まれるせいか、彼らの想像力は現実の情勢を度々先取りしてしまう。技術革新に伴い年々速報性と詳報性を(真偽のほどはともかく)上げ続ける高度メディア社会においては、大統領の陰謀(前政権時に問題となった元ホワイトハウス実習生との不倫もみ消し工作等)すら直ちに暴露されてゆくばかりだ。
 帝国主義的覇権の追求にひたすら邁進するアメリカの「正義」の実態が空疎で自国中心主義的なものにすぎぬことは、「9・11」以後ますます明確化しつつあるが、現政権は相変わらず好戦的姿勢を崩さない。それらの風景が既視的で寒々しく感ずるとすれば、原因の一端はハリウッドにある。セックス・スキャンダルを起こした前大統領は、ブラック・政治コメディー『噂の真相/ワグ・ザ・ドッグ』の描いた陰謀をなぞるかのごとくイラク空爆を行ったことは今では有名な話だ。反米テロリストや諸々の「ならず者国家」に対する現大統領のカウボーイ的言動の総ては、SFパロディー『インデペンデンス・デイ』として予め映画化されてさえいる。
 
 果たして「正義」は今どこにあるのか—-あるいは個人の「妄想」の中であれば、「正義」は未だ健在なのかもしれない。情報技術の急激な発展と普及は記録の検証可能性を格段に高めた(日本においては、十五歳の少女が「和歌山毒入りカレー事件」の真相をウェブ検索を駆使して調査した成果が一冊の書物として刊行され、その的確性が大きな話題となる時代なのだ)。
 インターネット上では、「9・11」以後のアフガニスタン情勢を追う過程において、アルカイダの声明ビデオに登場するオサマ・ビン・ラディンが本人か替え玉かを問う議論が発表後直ちに広まるほどに陰謀論的解釈は今や常識化している。エシュロンやカーニボー等の通信傍受システムの構築、街頭監視カメラの設置、インプラント式バイオチップ等の医療技術や様々な個人認証技術の開発、電子監視社会に繋がる法整備の動向—-これらに対する警戒感もまた一部のネットユーザーの間で日増しに強まってきている。
 行政と民間の双方が推し進める情報管理システムの強化が「プライバシー・クライシス」の不安を煽り、ついにはわたしたちを被害妄想へと追い込む。数多の通信メディアを介して乱れ飛ぶ種々雑多(真偽不明)の情報を頼りに暮らさねばならぬ(誤解の発生率が高まる一方の)現況においては、思考の(被害)妄想化は不可避だ。
 しかしこの妄想は時として健全な、積極的な可能性の追求とでもいうべき一つの有効な現実認識の手段なのかもしれず、過剰な管理社会への抵抗の策を考え出す手掛かりにもなり得る。ここに現代の「正義」の有り様を認めることは可能かもしれない。妄想はしばしば人を苦情好きの厭世家にさせたり反社会化を促すが、少なくとも今は(または常に)、何も考えずにいるよりはましなはずなのだ。むろん、『陰謀のセオリー』や『Xファイル ザ・ムービー』などの謀略ドラマが描き出す「闇の勢力」が現存するか否かを探ることに時間を費やしてもあまり意味はない。妄想的想像力はまず、独善的「正義」に抗するための創造的運動にこそ使われるべきだろう。
 
 先に述べた通り、現状において「正義」の「人殺し」を描くことは多くの場合、シニカルなパロディーとならざる得ない。作者の側がどういった意図を込めていようと、反復の印象が先立ち、現実との対比が脳裏を過るせいで(全面的にではないにせよ)どうしてもそう見えてしまう。だからむしろ、一般的な良心や正義感の共有を拒否している者、または人格の完全に欠如した何者かが殺したり殺されたりするドラマのほうが現在は成り立ちやすい。
 戦後から続く今日的な社会は「腐敗」が前提となっており、そのことにみな飽き飽きしてもいて、不信感を深めてゆく者たちと無関心を貫く者たちの間の溝は埋め難い—-真っ当な「正義」の観念を失ったハリウッド的スペクタクルが両者を納得させるには、本能的な行動としての殺人を描くか、歴史上の事件(確定事実)を題材とする以外に適当な術は見当たらない。
 「人殺し」の「正当性」はもはや、ハンニバル・レクターのような超人的犯罪者か、『ジュラシック・パーク』の恐竜たちや『スターシップ・トゥルーパーズ』の昆虫軍団みたいな本能主義的存在(怪物)によってしか示し得ぬのだとすれば、ハリウッドは物語上の舞台を現代(日常性)から遠ざけるほかないわけだ。
 デジタル革命を経たハリウッドにとって、現代の日常的世界は面白みに乏しい被写体となってしまってさえいる(特殊視覚効果技術を用いる必要性が低いためだ)。事実、九〇年代のハリウッドは、異世界や近未来や史実の描写を主軸に据えた映画を量産した(前述した『タイタニック』の成功はこの文脈で理解せねばならない)。『マトリックス』のサイバースペースとは、同時代的な社会状況を忘れさせて円滑な虚構への没頭に導くために仕掛けられた、何をやっても(当然のことながら「人殺し」も)許されるという共感の回路=「正当性」だったのだ。
 

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上記の戦略を逸早く取り入れたスティーブン・スピルバーグにとって、九〇年代は興行と批評の両面で充実した時代となった。『ジュラシック・パーク』シリーズにおいて「本能的殺人」を描いた彼は、第二次世界大戦という史実を共感の回路として導入し、『シンドラーのリスト』と『プライベート・ライアン』の二本を監督した。
スピルバーグは、ナチスによるユダヤ人大量虐殺という確定した歴史的事実の映画化を「大義名分」とすることによって残忍な「人殺し」場面の演出的「正当性」を確保し、同じ方法でノルマンディ上陸作戦の凄惨な光景を表現してみせた。それは、今日の政治的現実において大規模な「殺戮」スペクタクル映画を撮るための、スピルバーグなりの賢明な選択だったわけだ。
いや、それは全く転倒した解釈だ、という指摘も判らないではない。そもそもスピルバーグ自身ユダヤ系のアメリカ人であり、ホロコーストを批判的に描き出すことだけが彼の本意なのであって、残忍な「人殺し」の場面などその副産物にすぎない、という見方も一応は筋が通っているとは思う。
だが、いわゆる「子供向け」の作品を数多く製作してきたからといって、『激突』や『ジョーズ』の作家の「嗜虐指向(サディズム)」を無視することは偏狭な先入観に基づく見落としでしかない(スピルバーグは、例えばあの冒険活劇『インディ・ジョーンズ』シリーズにおいてさえホラー映画的な人体破壊描写を挿入し、自身は原作と製作を担当してトビー・フーパーを監督に起用した『ポルターガイスト』では終盤に死体の群を登場させてもいる)。
九〇年代に入ってかつて以上に顕在化したスピルバーグの「残酷趣味」は、一部のシネフィルにとってはすでに周知の事柄だと言っていいが、皮肉なことに、ナチズム批判の映画『シンドラーのリスト』が彼の嗜虐的表現を深化させたことは疑い得ない。オスカー・シンドラーの伝記的事実(ユダヤ人救済)の映画化は、ナチスの残虐行為を「リアル」に再現(演出)することの「正当性」(権利)をスピルバーグに与えた。ホロコーストの悲惨を視覚的に判りやすく伝えることが、ハリウッド的スペクタクルの規範に沿ったナチズム批判の方法だったわけだが、同時にそれはスピルバーグにとって即物的な暴力描写の演出機会でもあったのだ。
『シンドラーのリスト』における「殺人」場面は、ほとんどが「第三者」(ナチスとユダヤの狭間に立つシンドラー)の視点から見られたものとして構成されている。物語の展開上、シンドラーはナチ党員でありながら大勢のユダヤ人を救い出さねばならない—-そのため戦略的に傍観者の立場を取らざるを得ぬシンドラーの視点をスピルバーグは利用し、ニュース映像的表現によってナチスの無慈悲な「殺し」の数々を描き切ったのだ。
九〇年代に盛んに用いられたこの疑似ドキュメンタリー的手法は、殺害の様子を一際生々しく(見方によっては派手に)描き出すことが出来る一つの有効な様式だ。どれほど惨たらしく作り込んだ死に様であれ、ニュース映像的印象が尤もらしさを加味し、実情はこうなのだろうと観客の多くをすんなり信じ込ませてしまうからだ。聡明なスピルバーグは、このことを誰よりもよく理解していたと言っていい。
『シンドラーのリスト』と『プライベート・ライアン』は、所々でスプラッター映画並の残酷な殺戮を描いたにもかかわらず、発表後いずれもアカデミー賞の候補作として有力視され(結果的には前者が作品賞ほか計七部門、後者が監督賞ほか計五部門を受賞)、興行的にも成功をおさめた。理由は明白である。戦争という巨大な暴力は不条理以外の何ものでもないという、最大公約数的共感の回路を通すことにより、観客は安全な娯楽環境の中で無責任な傍観者となって「惨殺」のスペクタクルを見続けることが可能となる—-衝撃的な「人殺し」の場面を見ること自体、描かれている事態に対する批難の姿勢となり得るとさえ思わせる効果が、恐らくそこでは発揮されていたのだ。
だとすれば、上記の二篇においては「傍観者」自身もまた批判の射程の中心に据えられていたと指摘すべきなのかもしれぬが、いずれにせよ、ここらでそろそろ『ゾンビ』への論及に戻らねばならない。
  
すでに明らかなように、ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』は上述の九〇年代的な映画製作の状況を先取りしていたと言える。

「生ける屍」を殺しまくったところで、そのことを責め立てる者などいはしない。そうすることが、生き延びるために必須の手段なのだから、登場人物たちは徹底的にゾンビを駆除せねばならない。主人公らの立て籠もる大型ショッピング・センターは仮想現実空間なのだと以前に記したが、当然のことながらそれは『マトリックス』におけるサイバースペースと同義的だと見做す解釈である。『ゾンビ』のショッピング・センターもまた、何をやっても許されるという回路=「正当性」を有す虚構的治外法権の場なのだ。
実際、『ゾンビ』の主役である四人は、生活必需品はもちろん贅澤品や銃器類まで揃ったショッピング・センターの内部を自身らの楽園に作り替え、思いのままに暮らし始める。いや、ショッピング・センターに限らず、『ゾンビ』の物語世界全体がその治外法権的回路と繋がっている。そこは反自然的法則の支配下にある、全面的なサバイバル環境にほかならぬからだ。
安全な場所を確保しながら、生き延びる(食い殺されぬ)ために、元より死んでいるはずの人間(の紛い物)を「殺す」(行動不能に到らしめる)—-このプロット展開は、九〇年代に家庭用ゲーム・ソフト『バイオハザード』シリーズへと受け継がれたことが物語ってもいる通り、今となってはゲーム性に近い感触を受ける。
ゾンビは、人の姿をしているから「殺害」の場面は「リアル」に映るが、モンスターでもあるため遠慮なしに「殺し」てしまえる(こうした設定は、「正義」の行使でも「復讐」を遂げるためでもなく純粋に娯楽目的のユーザーらに「殺人ゲーム」をおおっぴらに愉しませる上で有用な策ではあろう)。『ゾンビ』においては、「人が人を殺す」行為は罪過と無縁の純然たるアクションと化しているわけだ。
この感覚をそのまま肯定することは危険だが、ロメロの『ゾンビ』は殺人推奨映画ではむろんない。ゾンビというキャラクターの機能は、単なる人肉嗜食には留まらない。わたしたちはそろそろ、『ゾンビ』が「人が人を殺す」アクションを描いた映画だという見方を捨てねばならぬだろう。主人公らに「殺され」ているのは、「死人」であることは確かだが、「生ける屍」という存在に込められた意味は、映画(メディア)の問題と深く関わっているのだ。
  
ならばいったい、そこで「殺され」ているのは何ものなのか。
 『ゾンビ』は、主人公の女性テレビ局員フランが壁に寄り掛かりながら悪夢に魘されていて、同僚に肩を揺すられて目覚めるまでの姿を捉えたショットから始まる。ゾンビの襲撃事件が各地で発生して世間は大混乱に陥っており、彼女が勤めるテレビ局は緊急報道番組を放送している最中だ。悪夢から覚めたはずが、現実上でも悪夢的事態が進行していることをフランは改めて知らされる。覚醒はもはや悪夢から逃れるための出口とはなり得ず、本当の恐怖の入口へと変貌したのであり、夢と現実はもはや地続きの状態となってしまったのだ。
 冒頭場面が、テレビ局内の出来事を描写していることは二重の意味において重要だ。

まず、番組出演中の学者とアナウンサーのやりとりによって物語上の世界の前提(ゾンビに関する主要な設定)が簡潔に説明される。この説明は、フランの(夢と現実を地続きにした)深刻な覚醒の意味を補完をする。それだけでなく、同場面は、後に続くドラマが仮想現実(ゲーム的)空間でのサバイバル戦争へと移行してゆくことの布石にもなっている。
 
目覚めたフランは、すぐさま副調整室内のモニターに目を向ける。映画は以後、生放送中のスタジオの様子を丹念に描いてゆく—-ここに組み込まれる一連ショットは、数台のモニターの画面やテレビカメラのファインダーを度々映し出す。これはすなわち、フランの悪夢(のイメージ)が転移してゆく過程と見ていい。悪夢は、覚醒後の現実と連結し、副調整室内のモニターやテレビカメラの捉えた映像とまで組み合わさり(番組出演者の発言によって自明化され)、悪夢的現実のイメージを一層強化しているのだ。

夢も、目前の現実も、メディアの報道も、総てが今、悪夢的事態にあるのだと伝えている。夢と現実、さらにはメディア上のイメージが同化(悪夢化)することにより、『ゾンビ』の作品世界は外部(逃げ場=覚醒後の現実)を欠いたサバイバルの戦場(三位一体の仮想現実空間)として仕立て上げられてゆくのである。

夢と現実が接合されるとき、何が産み出されるのか。

仮想現実空間としての映画(生ける屍)が生まれるのだ。映画が、夢と現実の中間層であるのと同様、「生ける屍」ゾンビは生死の媒介者的存在にほかならない。

死者でありながら生者のごとく行動するゾンビは、生と死の狭間に立って両者の対立を無効化する役目を担っている。人間の生と死は、ゾンビを介して立場を入れ替え、同一化した末にそれぞれ意義を失うのだ。

ゾンビに襲われた者は、死にはしても(全身を食い尽くされぬ限りは)生ける屍となって甦るわけだが、必ずしもそれは不死化を意味しない。生死を超越した存在ではあれ、頭部を破壊されればゾンビはもう活動できぬからだ。それゆえ『ゾンビ』のサバイバル戦において重要なのは、相手が可動か不動かの判別だけとなる。だからこそ、「殺戮」は純然たる(空疎な)アクションと化すわけだ。

こうして映画は、アクションの権利だけを賭けた戦争のゲームを浮き彫りにしてゆく。これほど「正義」とは懸け離れた、無意味な戦争の様態は他にあるまい。だが、それを描き得たがゆえに『ゾンビ』は偉大なのだ。
  
仮にゾンビが、映画の陰喩なのだとすれば、大型ショッピング・センターでの出来事はなかなか象徴的である。なぜなら、そこで展開しているのは映画とテレビの陣取り合戦(アクション描写の権利争奪戦)みたいなものだからだ。

二人のテレビ局員を含む主人公らは、ショッピング・センターを自分たちの楽園とするためにゾンビ=映画を駆逐する。周知の通り、これは六〇年代以降、現実に起きた(映画からテレビへと、大衆メディアの代表格の座が移行した)事態でもあるのだ。

この場合、ショッピング・センターは、かつては「夢工場」と呼ばれたハリウッドの撮影所(これもまた一つの仮想現実空間に違いない)を指しているのかもしれない。楽園生活を送る四人は、銀行強盗の真似をしてみたり、サイレント映画女優のような派手な化粧を施してみたり、西部劇のガンマン的スタイルを装ってみたり、着飾って優雅なディナーを愉しんだり、スケートや壁打ちテニスを行ったりと、様々な「役所」を演ずる。いわばテレビ(的存在)が、撮影所から追い出した映画(的キャラクター)を模倣してみせているわけだ。

主人公らがテレビの代行者なのであれば、ショッピング・センターから追い出された側であるゾンビの「役所」とは、撮影所システムが盤石だった頃の「古き良きアメリカ映画」ということになるのかもしれない。それを裏付けるかのごとく、『ゾンビ』には、看護婦、野球選手、尼僧、泳者、ダンサー、ガンマン、等々、様々なコスチュームに身を包んだ個性的な「生ける屍」たちが登場する。

このように捉えると、ゾンビらの示す至極単純なアクションは、「古き良きアメリカ映画」特有の簡潔さと明快さを体現したもののごとく思えてもくる。そして後半、ショッピング・センターを襲撃する『イージー・ライダー』的な暴走集団は、「アメリカン・ニューシネマ」ということになるわけだ。

だとすれば、アメリカ映画の新旧勢力とテレビとが、「夢工場」としての楽園(あるいは廃墟と化した撮影所システムの残像)を巡って(三つ巴の)サバイバル戦を繰り広げる様を描いたのが、大型ショッピング・センターにおけるクライマックス場面だったのだと結論すべきなのだろうか。いずれにせよ、『ゾンビ』の描き出す消え去らぬ悪夢(夢、現実、メディア上のイメージが組み合わさった三位一体の仮想現実空間)とは、映画(歴史)の記憶というトラウマを意味してもいるだろう。情報メディアの齎すトラウマ—-この無数に蔓延るゾンビたちを振り払うのは、わたしたちにとって至難の業であることは言うまでもない。
  
ゾンビ映画は無数に存在するが、同ジャンルにおいて最も影響を及ぼしたロメロの『ゾンビ』にのみここでは注目した。

「生ける屍」が人を襲い生肉を喰らうという設定自体は、ロメロの劇場用映画第一作『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(六八年)においてすでに用いられてはいる。だが、映画における「大量殺戮」的表現の問題を検討する素材としては、「殺し合い」の残酷描写が一段と増した『ゾンビ』以外に考えられない。

『ゾンビ』は、一般に言われているように、大量消費主義への批判を込めた極限状況下の「人間ドラマ」的な面を含むから優れているのではない。大型ショッピング・センターでの立て籠もり生活を作品の中核に据えて、現代社会の戯画として表象した点にも確かにいくらかの意義は認められる。

しかしそれ以上に、「大量殺戮」を描きつつも、「人殺し」を徹底して空疎なアクションへと近付けたことにまず瞠目せねばならない。映画における「殺人」の描写が、いかなる「正当性」に裏打ちされていようと、結局のところそれは「リアル」な視覚的刺激の効果にすぎぬと何よりも露骨に暴き立て、善悪や生死の二項対立的状況を無効化したドラマを展開させたことこそが、『ゾンビ』を高く評価すべき所以なのだ。

ロメロによる「リビング・デッド三部作」の初篇として位置づけられる『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は、ゾンビ映画史上の極めて重要な一作だが、続篇として撮られた『ゾンビ』は、アメリカ映画が必要悪として抱える暴力性(殺人の意味)を失効させ得た奇跡的な作品にほかならない。『ゾンビ』があることによって、アメリカ映画は未だに「殺人」の実行を許されているのだ。

*初出

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『声と身体の場所 (21世紀文学の創造 6)』岩波書店(2002/7/29)